人間が肉体に生まれたことにより自我が生まれ、その自我があるからこそ、この世で人間として生きてゆけるわけですが、その自分と他人を区別する自我の想いが強いと自己中心的になり、何かと争いの種になってしまいます。
ですから、人間がやるべきことは、その自我の想いを如何にして薄めてゆくかということになります。肉体がある以上、自我が全くなくなってしまうことはできませんが限りなくゼロに近づけてゆくことだと思います。
五井先生は「空」になられ肉体の想いは空っぽになられても、自分の癖を残して、それを使っているとおっしゃっていました。本体の光がそのまま現れたのではこの世の生活はできません。
世界平和の祈りは「自我を薄くする祈り」です。「自分・自分」と思っている想いを「世界平和・世界平和」と想いを転換することにより、小さな肉体から想いが宇宙に広がり日常生活の些細なことで悩むことはなくなります。そして人間の幸せは、自分だけではなく皆が幸せになることだとわかってきます。
生きとし生けるもの全てが幸せでありますように
私は幸せになります、どうか全ての人が幸せになりますように
世界人類が平和でありますように
あの人は今? というテレビ番組がありましたが・・・
あの花は今? ということで、秋に生けた草花は今このようになっています。
生花は何日しかもちませんが、私は枯れても面倒見ています。これが思った以上に面白いので幾つかを紹介します。
何と生けてから3ヶ月近くなる紅葉です。枯れても趣があります。
「枯れ花1」
もちろん水は入れてありません。これも3ヶ月近く楽しんでいます。
「枯れ花2」
赤い実はカリカリになってもその赤さを保っています。白い花に見えるのは白い紫陽花の花が枯れて芯だけになったものです
「枯れ花3」
マムシ花が枯れて真っ赤な実だけになり、さらにその実も落ちかけ、さまざまな表情を楽しんでいます。台はストーブで燃やす薪でつくりました。
「枯れ花4」
世界人類が平和でありますように
私はこれまで自分の体で実際に行って真偽を判断してきました。人が良いと言うからやるのではなく、これと思ったことはとにかくやってみてその体験で真偽を決めました。例えば食べ物に関して言えば、ありとあらゆる物を食べ体がどのように反応するかを見極めました。最初はなかなかわかりませんでしたが、繰り返しているうちに体調の変化がはっきりわかるようになりました。
お酒もリラックス効果がありストレスを発散させる効果はありますが、臓器にかなりの負荷がかかり体が霊妙になって来ると一口のお酒でも体調が悪くなるのがわかります。先日、ワイングラスにブルーベリージュースを入れ1㎝ほど赤ワインを混ぜて飲んだことをお伝えしましたが、何日か飲んでみてやはりダメでした。
そのわずか1㎝のワインでも体がだるくなり意識の明晰性が損なわれることを感じました。新しく買ったワインがまだ残っていましたが、その体への負荷を考えるともう飲む気にはなれず流しに捨てました。若い頃、酒豪でならしたお酒好きの私がこのようになるとは思いもよらないことで、人間はいつどこでどう変わるかわかりません。
そんなわけで、一時が万事、私は自らが全責任を持ち、体験を通して一つ一つ真偽を見極め階段を登ってゆきます。時間がかかるように見えても、急がば回れで、これが一番確実な方法です。
世界人類が平和でありますように
毎朝、散歩をしていると、夏には見ることができなかった自然のありさまを伺うことができます。枯れた草木がまるで生きているかのように目に入リます。その幾つかをいつものペンダントにしましたので是非ご覧ください。職人さんは全く同じ物をいくつもつくるのが仕事ですが、作家は2つと同じ物をつくる気持ちはおこりません。これは芸術の原則みたいなもので、同じような物をつくる時は必ず前作で足りなかったところを補っています。
このペンダントは世界に一つしかない超レアなもので、普通ではありえない物ばかりですから笑って見ていただければと思います。
1 紫大根の葉っぱの付け根の部分です、乾し天然石をあしらいました
2 ドングリの額に人工ダイヤモンドを入れました
3 なんと1年間雨ざらしにされた梅の実です
4 その梅の実の中身です
5 幼虫が入っていた網の袋にどんぐりを入れました、2作目になりますが今回は丸い玉をつけました
松ぼっくりシリーズです、いずれも色の付け方など変えています
5番目も松ぼっくりの芯の部分に天然石を入れました
1 ザクロの実の皮に天然石を入れました
2 ザクロの実の皮に水晶を入れました
3 これもザクロの実の皮ですが不純物の混じった水晶を入れました
4 クルミの実の皮に天然石を入ました
5 これもクルミの実の皮ですが形が綺麗なのでそのままです
いずれも木のつるです、絡み合ったところが最高です
世界人類が平和でありますように
人間の最も強い欲望はその人の因縁性にもよりますが食欲と性欲でしょう。
この二欲は肉体人間の本能に関わることですから、それにとらわれなくなることはなかなか難しいことです。私は食べることに関しては、時間はかかりましたが少食を心がけたことにより食べることへのとらわれはほとんどなくなりました。今では芸術感覚で、コーヒーとか野菜や果物などを味わうだけで満足しています。一番好きな食べ物は何か?と問われると、「りんごとキュウイ」・「干し柿」、「紫大根」・「大豆と南瓜の煮っ転がし」と応えます。
人間は、美味しいものを腹いっぱい食べたいという気持ちは誰もっており何を食べてもイイわけですが、食べ過ぎや美食はいのちを縮めるだけですから、自分の健康のためにも粗食に慣れるべきです。
私はもし食糧危機が起こっても食べられなければ食べないで全くヘッチャラです。
私の最終課題は女性に対するとらわれでした。本来は人間皆神の子で、男性も女性もなく女性を意識することは必要ないと理屈ではわかっても、なかなかそのことを実行することはできませんでした。こればかりは、祈っても祈っても同じことを繰り返しました。
しかし、今は全くその想いを超えることができました。恋人や夫婦が男女仲良く協力することは素晴らしいことですが、私は女性に対して依存心があったということに気づき、その依存心を断ち切ることにより吹っ切れた感があります。
祈ることはもちろんですが、心の底から反省し消えてゆく姿にしないと何度でもその想いが出てきます。五井先生は「消えてゆく姿」は「これはいけないこと」と反省があって初めて消えてゆくんだとおっしゃっています。私が何度も同じことを繰り返したのは「これくらいはイイだろう」と本当に反省していなっかたということです。
心に一点の曇りがない青空のような心境になるには、日々の振り返りがいかに大切であるかということが言えます。五井先生は「祈っていればいいんですよ」と簡単におっしゃいますが、最後の最後は自分を見つめる反省力が必要です。人間はどんなに覚ってもこれでイイんだということはなく、坂を登るのは辛くても転げ落ちるのはあっという間です。いつも反省の心をもち謙虚であることが大切です。
世界人類が平和でありますように
人間が覚るとは「自分が神である」ことに気づけばイイわけですから、宗教に限らず芸術やスポーツ、日常生活の中からかも覚りを得ることはできるはずです。しかし、実際はなかなか覚れないのが現実です・・・なぜでしょうか?
それは五井先生がおっしゃっていますが、とらわれが多すぎるのだと思います。俗に言うところの「取り越し苦労」です。先のことは決まっているのに、どうしよう、こうしようと迷うことです。明日のことを思い煩っても、思わなくても明日は来るのです。
そのことを五井先生は、著作「空即是色」白光出版(P124〜)に次のようにお書きになっています。
「人間は生きるも死ぬも決まっているし・・・本当のことを言うと、みんな決まっているんだよ、だからのんびりしていればいいんです・・・あくせくするぐらい馬鹿なことはありません・・・一番いけないことは把われ。よくなろう、よくなろうともがきなさんな・・・世界平和の祈り一念でいいんです。あとはなんにもいらない。あとは当たり前のことをやっていればいい。」
五井先生がおっしゃると納得しますが、頭ではわかっても実際に体がついてこないのが普通です。しかし、最初から自分はできないと思うのではなく、とにかく、一日一日、一歩でも前に進むことです。「千里の道も一歩から」いつか必ず千里の道を歩き切ることができます。
また五井先生は同じご本の中でこのようにおっしゃっています。
「宗教の極意は空とか、無意にしてなせ、という老子の言葉があります。・・・必要な時にその活動を開始すればいいわけでしょ・・・一日中いちいちガチャガチャ思わなくたって、そのままスースーと生きられるようになる・・・心臓が自然に動いているように、肺臓が自然に動いているように、胃腸が自然に動いているように、自然に動いているんです。・・・だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんです。・・・と同じように、人間の考えも自然に湧いてくる。それを自然法爾というんですよ。無意にしてなせ、ということもそうなんです。自然に行動が行われてくる。しかもその行動、知恵はその時最も適したもので、人をも自分をも生かしている、ということになる。」同(P128〜)
世界平和の祈りの道を極めると無理をせずにいつの間にか「無意の道」が開けます。何事も「自然法爾」に全てが整いイイように動くようになります。
いつも言うことですが、これは間違いないことです!!!
五井先生を信じ切り、世界平和の祈り一念で、あとはなんにもいらない
当たり前のことをやっていればいい
世界人類が平和でありますように
今、お店に行けば何でも好きな物が手に入り自分が気に入った物があればそれを買えばいいわけです。ところが私の場合、自分の感性に合った物がなかなか見つかりません。そこで、作れるものは自分で作ってしまえというのがそもそもの出発点で、それがついには自分が納得できる家をつくるまでになったということが真相です。ですから、家をつくることを考えれば、今日紹介する装飾類や食器類など朝飯前で、いくらでもアイディアが湧いてきます・・・いい素材が目にとまれば一気に作ってしまいます!
コーヒーを美味しくいただくのにコーヒー皿は必須です。ホームセンターで売っている輪切りの木をほんのちょっとだけ手を入れてみました。これで飲むコーヒーは格別です。
自分が夕食で使う箸を作りました。
既存のものは使いにくく、重さ・長さ・色・形、自分が一番しっくりくるものにつくりかえました。言うことなしで毎夕食が楽しみです。
くるみ、果林に続いて・・・ついに「松ぼっくり」のペンダントです。昨日朝散歩途中に拾い、色を若干加えたり金の小物をつけたりしました。自然がつくり出すものは黄金比でできており神の摂理を実感します。
1つ目はどんぐりそのものです。
2つ目・3つ目は山で拾った実の中心を削って天然石を入れました。
4つ目はどんぐりの額にどんぐりに代わって紫水晶(アメジスト)を入れました。
5つ目は枝と木の実を合体させてペンダントにしました。
作業中に出た木の切り端で、普通ではゴミになるものを焼いて磨いてペンダントにしました。
(表と裏・リバーシブルでどちらからでも鑑賞できます・以前紹介したものに紐を通しました)
どんぐりはラインが本当に綺麗で色はほとんど天然です。どんぐりだけでは寂しいので金の小物をつけました。3・4つ目はワンポイントで天然石を添えました・・・木の表情は無限です。
1つ目は天然の木の実で色もそのままです・・・それにアクセントとして天然石を添えました。
2つ目は何と!蝶の幼虫が入っていた網の袋に代わってどんぐりを入れました・・・超レアな一品で気に入っています!
3つ目はカリンの種を抜き天然石に入れ代えました。
世界人類が平和でありますように
私は、見えないものが見えたり聞こえないものが聞こえたりはしませんが、長年祈り続けた結果、肉体波動が霊妙になり直感的に物事を感じることができるようになっています。それは普段の生活すべてそうなのですが、特に夢で予知夢を見ることが多々あり、地震が起こる時は大概、数日前か前日に夢を見ます。
今回、トルコ地震の前に津波を伴わない地震を夢で体感しています。これまで海外で起こる地震を感じることはなかったので、それを感じたということは、本来東京で起こる地震がトルコに移されたというのが真相のようです。
まんだらけ社長、古川氏も東京の上空に巨大な地震雲を見られたと聞いています。トルコの方には誠に申し訳ありませんが、いずれ起こるはずだったトルコでの地震が早められ、それでも小さく消していただいたということです。
東京を震源とする直下型地震がもし起これば甚大な被害が出ることは明らかです。いつ何が起っても落ち着いて対処できるように物心両面の準備は怠らないことです。ちなみに、自宅はお金はかかりましたが耐震補強工事はすませました。また山のアトリエとは別に2台のリチュウムイオンバッテリーを備え、それに繋ぐUSB電灯も用意しています。保存食も2週間程度なら何の問題もありません。
「昨年の12月22日、冬至を境に潮目が変わった」と、古川氏は述べていらっしゃいます。私も12月25日のブログで「肉体感覚が薄れている」とそのことに触れていました。私の直感は間違いではなかったようです。潮目が変わったということは、良心的な生き方がしやすくなるのだと思います。
良いと思うことは勇気をもって突き進んでゆきましょう
世界人類が平和でありますように
私は足掛け6年、全くの素人が棟上げ以外はほぼ一人で2棟のログハウスを建てたことにより本当に大きな学びを得ることができました。最初の一棟は、6畳一間に4畳のデッキという極めて小さいものでしたが、これならもっと大きいのもできるという自信がつき、昨年は年金生活に入ったのを機に約22畳、ロフト付きのものにチャレンジしました。
ログを組み建物を建てることはもちろんですが、加えて・・・本来デッキ部分を床と壁を張り窓を付け、檜風呂・トイレ(ほぼ檜板張り)とアトリエに変更(材料の調達等を含む)、机(大小合わせて6つ)、オリジナルシステムキッチン(部屋用・作業用1.8m2つ・モザイクを施す)、ドア(玄関・風呂・トイレ3つ)、棚(居間・器用・キッチン3つ)、物置(2つ)、カーポート(テント式)、庭の敷石の配置・植栽、デッキ(作業用木製4㎡)、太陽光蓄電システム及び屋内配線(東電と切り替えができる)、オリジナルデザイン電灯(2つ)、ストーブの設置(断熱壁・煙突を含む)、等々・・・そして今は壊しましたが直径4mものドームハウスも作りました。
今思い返せば、よくぞここまでやったと感無量です!!!そして、それは必要な人材を引き寄せ、やり遂げる知恵と力を授けていただいた守護霊様の応援があればこそです。
「やればできる、どんな困難もそれを解決する方法は必ずある」ということを体験を通して深く魂へ刻み込むことができました。
素人が家を建てること自体無謀ですが、一生懸命やっていると困難を切り開く知恵や力が湧いてきます。自分はできないと最初から思う人は何もできませんが、無理をせず一つ一つ、一歩一歩前に進んで行けば必ず道は開けます。
観念で「自分はできる、できる」と思っても実際にやらないと何もできません。「自分は健康だ、健康だ」といくら唱えても健康にはなりません。それより毎日10分でも20分でも外を歩いた方が健康になります。全ては失敗を恐れないでやることです・・・これが運命を切り開く一番大切なことだと気づくことができました。
それは「祈り」にも言えます。五井先生の教えを理解し祈りとは何かがわかれば後はとにかく実行あるのみです。想いが空っぽになるまでひたすら祈り続けることです・・・結果は必ずついてきます!
理論は大切ですが、実際にやらないと何も生まれません
世界人類が平和でありますように
一旦は完成したつもりでいた山のアトリエですが、厳冬の山を体験し風通しが良いデッキを断念しました。床は断熱ボードを敷いてその上に杉板を貼り、壁は下部は断熱材を入れて床材に使う厚みのある檜板と上部は10センチの角ログを貼りました。窓は両サイド今回材料を調達した同じ会社の木製枠のものを入れ、真ん中は日当たりを重視してネットでアルミサッシを特注しました。玄関ドアも少し重厚感のあるものにつくり代えました。壁の色も材質も微妙に変えているのがおわかりでしょうか?大分苦労しましたが、結果良ければということで、めでたし、めでたしです!!!
是非、皆さん、春の桜が咲くシーズンに遊びに来てください!
2月に入って、気温も若干和らいできましたので、いよいよ本格的に作品制作に入れそうです。
とりあえず、速報です・・・!
世界人類が平和でありますように
1+1=2 ・・・確かに算数ではその通りなのですが、
1+1=無限大 ・・・芸術においてはこれが正解です!
芸術は 1+1 がその相乗効果により 2 以上の効果を生み出すことにあります。
絵画においては、例えば2つの色の組み合わせ方により、それぞれ単色で用いた時より多様な効果を生み出すことができます。それこそが芸術の原点で絵画や音楽などに限らずあらゆることに言えます。
私ごとになりますが、コーヒーを飲むのに初めは渋みを引き立てるため黒砂糖をほんの少し入れていましたが、イマイチ味がしっくりこないところがありブラックに切り替えました。ところが最近、試しに黒砂糖をほんの少し口に含ませブラックコーヒーを飲んでみたところ、黒砂糖の甘味がコーヒーの渋味を引き立て絵も言えぬ味の変化を感じることでき感動しました。それは高純度のチョコレートを口に入れ程よくブラックコーヒーを飲むのに似ています。抹茶と和菓子の関係も同じです。
また、ワインで酸化防止剤が入らない安くて美味しいものはないか、といろいろ飲み比べてみましたが、やはり私が納得いく味のワインはありませんでした。ところが、普段飲んでいるカゴメの「ブルーベリー野菜ジュース」を小さめのワイングラスに半分入れ、400円を切る最安値のメルシャンの辛口赤ワインを1センチくらい入れて飲んだところ、ジュースの甘味とワインの渋みが程よく混ざり合い、フルーティーなワインもどきの爽やかな飲み物ができました。これは私が理想とするワインの味に近いものです。アルコール度数は低いので後で体がだるくなることもありませんし何より安く飲めるのが最高です。
料理は芸術ですね! 1+1=無限大 です。組み合わせによって絵も知れぬ味に変化します。今、毎夕食にいただいている蕎麦を美味しく食べる方法を香辛料を変えて工夫しています。昨日は蕎麦の風味を損なわないカレー蕎麦を試しました。また、大豆と南瓜を昆布つゆだけで煮込んだところ最高の味になりました。そして、毎日いただいている生野菜のドレッシングも手を変え品を変えいろいろ試しています。今のところ、擦った黒胡麻・味ぽん・味噌・マヨネーズをバランスよく取り合わせています。(市販のものは使いません、自分が納得いく味のものをつくります)
これは男女の仲にも言えることです。是非皆さん、 1人+1人=無限大 のカップルになれるように頑張りましょう。
取り止めのない話になってしまいましたがご勘弁ください
世界人類が平和でありますように
先週はデッキに設置してある洗濯機の排水ホースが凍結し修理したり、新たに棚を作ったり、お風呂の床を補修したりして、ほぼ作業に費やしました。後はアルミサッシをデッキに入れるだけです・・・来週には届くと聞いていますので今から楽しみです。
さて、そんな中でも作業の合間をぬって、たくさんペンダントを作りました。これは秋、果林ジャムをつくった時の残りカスです。普通の人は捨てしまいますが、あまりに切った形が面白く乾燥させてペンダントにしました。果林は名前の通り、乾燥させるとまさにカリン、カリンになります。色はほとんど天然のままです。
「果林のペンダント」 果林・天然石・乾燥させクリアラッカー塗装
拡大しました
表と裏
おまけです・・・「無花果」と「胡桃」と「山で拾った何かの豆の皮」を乾燥させ硬くなったものをペンダントにしました。面白いとしか言いようがありません。なお、紐を通していない作品はこの倍あります。
天空芸術は何でもありの無意の芸術です。壁のシミに風景を見出し、捨てられたものに新たな生命を吹き込みます。美はブランドとは一切無関係です。どんなものにも美は潜んでいます。
世界人類が平和でありますように
全国的に寒い日が続いていますが、皆様はいかがお過ごしですか?
さすがに山のアトリエは連日氷点下で風も強いです。最初何もなかったデッキは気がつけば壁を張りガラス窓も入り部屋になってしまいました。今日はデッキの隙間風の入るところを補修しました。
その仕事の合間をぬってコーヒーを飲みながら窓から見える雪景色を楽しみました。「雪降れば、雪の心になりぬべし・・・」雪の白が余計なものを覆い隠し景色を純化して美しさを倍化させています。地球は一つの生命体ですから、暑いも寒いもすべては地球全体のバランスをとって行われていることで人間が文句を言う筋のものではありません・・・ならば、雪の心になって楽しみたいものです。
さて、人間が大人になるということは、まずは親に頼らず経済的に自立すること。そしてそれは物質面だけではなく心も自立することです。人に頼らず自分一人で生きてゆけるようになることが大切です。人がやっているから自分もやるのではなく、人が何と言おうと自分が正しいと思ったことを自らが責任をもって行うことです。もちろん無理をすることはありませんが曲げられない一線は大切にすべきです。(例えば、マスクをつけることなど本当はやりたくありませんが人と接する時は相手の気持ちを考えてつけます。しかしワクチンは絶対にしません、これは譲れない一線です)
自立するということは自分を確立することです。それは「自我を強め自分勝手に生きる」ことではなく「自分の本心である神と一体になり一つ一つの言動を確信をもって生きる」ことです。それは祈りの中から湧き上がって来る力によります。
情報の渦に流されることなく、日々大地をしっかり踏み締め、確固として歩んでゆきたいものです
世界人類が平和でありますように
1月は4日から山で過ごし今日自宅に戻りました。どうにか寒さを凌いできましたが、やはり仕事場であるデッキは寒いです。そこで、窓はこれまでの透明アクリル板から本格的にガラス板の窓に代えることに決めました・・・さてどうなるか?!できたら紹介します・楽しみです。
さて、部屋の流しは右側をモザイクでタイル張りにしたのはお伝えしましたが、今度は左側もタイルを貼ってみました。角には天然石をあしらいイイ感じになったと自画自賛しています。
また、風呂場の床はこれまでスノコでしたが、これも本格的に檜板で貼り、写真はありませんが名実ともに総檜張りになりました。
作品は甲斐駒ヶ岳をイメージして3作品額を入れましたのでご鑑賞ください。
*実際の「甲斐駒ヶ岳」ではなく、実物は一切見ないで私が理想とする風景に仕上げました。
「春爛漫」 F6
「晩秋1」6F 「晩秋2」 P10
世界人類が平和でありますように
下の文章は、数年前「無意の生き方1」に掲載した文章です。今読んでも修正するところはありません。何故この文章をコピーしたか、それは長年「世界平和の祈り」を祈ってきて、五井先生の教えは「漏尽通」を得る道だと今更ながら実感するようになったからです。漏尽通を得るということは、過去世からのカルマを全て精算し輪廻転生を超え晴れて自由の身になるということです。
これは大変なことです・・・真に、五井先生がおっしゃたことを信じ行えば、必ず「漏尽通」を得て覚醒できるのですから、最後まで諦めないで五井先生を信じ祈り切ることです。ただし長年、世界平和の祈りを祈っているとマンネリになることもありますので、五井先生の教えを総ざらいして日々心新たに祈りの道を進みたいものです。
○祈りとは何か?
(祈りとは生命の宣言、神と一つになる方法)
○祈りと念力を区別しているか?
(念力は自我を増大させ、祈りは空に至る)
○とらわれない生き方ができているか?
(全てを消えてゆく姿にし必ず良くなることを信じきる)
○消えてゆく姿の意味を理解しているか?
(無理をして「空」になろうとせず、一つ一つ反省し祈りに換える)
○不平・不満はないか?
(全てを消えてゆく姿にし祈りに換える)
○善いことも悪いことも全てを感謝で受けているか?
(全ては良くなるための消えてゆく姿)
○五井先生を信じ、ひたすら祈っているか?
(これが一番大事!)
世界人類が平和でありますように
*「無意の生き方1」より抜粋
六神通力とは(ウィキペディア、フリー百科典による)
神足通(じんそく) 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
天耳通(てんに) ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心痛(たしん) 他人の心を知る力。
宿命通(しゅくみょう) 自分の過去世(前世)を知る力。
天眼通(てんげん) 一切衆生の過去世(前世)を知る力。
漏尽通(ろじん) 自分の煩悩が尽きて今生を最後に生まれ変わることはなくなったと知る力。
五井先生は、霊能者と覚者の違いについてよくおっしゃっていました。霊能力は、過去世からの特殊な修行により、幽体が普通の人より大きく幽界や霊界等の細かい波に感応しやすく、見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、予言をしたりする能力のことを言い、ヨガなどの修行によりチャクラが開かれると、それに応じた能力が現れます。しかし、いずれもその人が神我一体になり悟って得た能力ではない、ということです。
霊能力の落とし穴
五井先生は、「漏尽通」以外の神通力は、悟らなくても得られる能力なので、その人の思いが低級であれば、幽界の低い波動の生物に感応してしまい、その霊能力が人に迷惑をかけたり、怪しい雰囲気を漂わせたりすることになるとおっしゃっていました。幽体の汚れが浄化されれば、霊界・神界に通ずるようになり、その能力が生かされるようになるわけです。
五井先生は、そんなことがあるので、まずは身を浄めることが大切で、霊能力を得たいと思うことを戒めておられました。私の五井先生を知る友人で、二人も自殺して亡くなりました。邪まな気持ちをもったままで中途半端な修行をすると幽界の生物のいい餌食になってしまいます。
五井先生の高弟に、村田正雄先生と斉藤秀雄先生がいらっしゃいました。両先生とも霊能力に秀でた方で、村田先生は、統一して宇宙人と交流し、円盤に乗り月にある基地に行ったり、霊界を自由に出入りされていました。一方、斉藤先生は、必要な時に必要な能力が現れるとおっしゃっていました。突然、テレポーテーションしたこともあると笑いながら話されていました。私もそうでしたが、両先生のように特殊な能力をもつことに憧れる気持ちは誰もあることです。しかし、そこには大きな落とし穴があることを知るべきです。
漏神通への道
五井先生の教えは「漏尽通」を得る道です。
神様と一つになり、因縁因果を解脱し自由自在心を得て、神様のみ心のままに生きられるようになることです。
その過程において、必要があれば神様から霊能力を授けていただくこともあるかもしれません。それは、自然法爾に授かるものであり、自らの我欲で欲してはいけません。祈りに祈り自我を滅らしてゆくことです。
私は、斉藤先生の直筆の書と、雪舟が斉藤先生を通して描かせた仏画のコピーを持っていますが、いずれもスゴイものです。まさに自由自在の境を肌で感じることができます。
「時くれば 花は咲くなり 焦らずも 身は結ぶなり み心のまま」
この斉藤先生の詩のように、いずれは誰もが花開く時が来るわけで、その時は、皆が超能力者になるわけです。あせることは何もありません。ひたすら神と一なることを祈り、世界平和の祈りの道を邁進してゆきましょう。
「思いやり、謙虚さ、反省力」
この3つが大切だ、と五井先生はご法話でおっしゃっていました。
人間は本来、一つの生命から生まれた兄弟姉妹であることは間違いないことですから、それが意識できれば自ずと相手を思いやる気持ちになれます。思いやり深い人は自然と謙虚になり優しくなります。そして謙虚な人は自らを省みて進歩します。ですから、一にも二にも思いやりの心をはぐくむことが大切だということになります。
私は特別なことは何もやっていませんが唯一「世界平和の祈り」を祈り続けてきました。「世界平和の祈り」を祈れば想いが世界に広がり小さなことにとらわれなくなります。自然と相手のことを思いやる心の余裕も出てきます。
どんな良いことも難しいことは長続きしません。「世界平和の祈り」は老若男女、誰でもいつでも日常生活を送りながら簡単にできる祈りです。五井先生の教えを理解し「世界平和の祈り」を祈って悪くなる道理はどこにもありません・・・時間はかかるかもしれませんが焦らず祈り続けてゆけば必ず結果は出ます。
これは私が体験した結果ですから間違いありません!
思いやり溢れる心ある人になりたいものです
世界人類が平和でありますように
デッキの流しに続いて、本丸である部屋の流しにモザイクを施しました。アマゾンで、すでに割れているいろんな色のガラスタイルを一袋購入し、ただ思いつくままにつくってみました。そうしたところ、タイルを全く割ることなくほぼ全てを使い切りました。素材のガラスタイルの色を生かすことだけを考えて、奥から赤・茶・紫・青とグラデーションに配置し左前を緑でしめくくりました。左側は年末に自宅の風呂のタイルを修理した時に使った薄いピンクのタイルの残りがありましたのでそれを使い、要所に天然石を埋め込みました・・・とっても気に入っています!
天空作品は「無意の芸術」です・・・全て自然に委ね自然のままに作品ができます。
私が今の作品ができるようになったのは、山にミニログハウスを建て山で過ごすようになってからです。よく芸術の世界で神がかりになるとか神が降りるなどと言いますが、まさにそうとしかいい言いようがありません。五井先生の高弟であった斉藤秀雄先生は、ある日突然、仏画が描けるようになったと聞いていますがそれに似ています。人間は肉体が空っぽになると神なる本体が現れ信じがたい才能が開花します。
それは日常生活にも言えることで、40数年ひたすら祈り続けた結果、何をするにも体が自然に動き常識では信じがたいことも体験しています。一例を挙げると、年賀状は元旦と3日にいただいた人だけに私の絵を印刷してお出しいています。ですから数は少ないのですが元旦にバタバタするのは嫌ですから、今年は旧年中に何も考えずに24枚印刷しました。そうしたところ、なんと届いたのは24枚ピッタリでした。なぜ24枚印刷したのかは私にもわかりません。ただ体がそのように自然に動くのです。これは一つの例ですが、一時が万事で、頭で考えるのをやめると体が最も良い方法を選択します。最近はそれが普通になりましたので今回のようなことも全く驚かなくなりました。
「無意」(神に委ねる)と言っても願望はあって当然です。しかしそれは本心が望んでいるのかはわかりません。ですから願望はあっても最後は神(守護霊)に委ねることです。神は永遠の生命が生きる道を選ばれますので目先の損得にはとらわれず、何が起きても神を信じてひたすら感謝一念、祈りの中から全てを行うことだと思います。
世界人類が平和でありますように
今年は大いなる進歩を得た年になりました・・・一つは意識が宇宙に広がっています。
毎朝の散策で見る道端の草花たちはどれ一つ同じものはなく、本当に「オモシロイ」の一言に尽きます。それは宇宙に広がる星々にも言えることで、そこにどんな世界が展開しているのか?興味しんしんです。是非、この地球という小さな枠の中から解放され自由の身になり宇宙を駆け巡りたい・・・心は透き通り意識は宇宙に広がっています。
2つは「中庸」とは何かを感じることができるようになりました。
「世界人類が平和でありますように」と座って繰り返し祈っていると、この世では2時間という時間が一瞬に過ぎてゆきます。その空感(統一)の深まりにより何か引っかかる想いが出てもそれを引きずることがなくなりました。いつも上から客観的に自分を見つめ、間違ったと思った時には素直に「ごめんなさい」と謝り心のベクトルを真ん中に戻す・・・五井先生がおっしゃっていた「中庸」とは揺れる想いを消えてゆく姿にし、真ん中を生きることだと感じることができるようになりました。
すべては祈りの中から成し得たものです・・・本来、肉体は空っぽなんですね!想いがないと心は不動です。
皆様、今年一年おつきあいいただき誠にありがとうございました。来たる2023年がそれぞれにとって更なる飛躍の年になりますように、心よりお祈り申し上げます。
世界人類が平和でありますように
「宇宙全史」(まんだらけ出版)にたびたび「ニサルガダッタ・マハラジ」という名前が出てきます。著者の虚空蔵氏によると数少ない完全覚醒した一人だとおっしゃっていました。もしそうであるならと、ニサルガダッタ・マハラジとの対談を本にしたものが日本では、I AM THAT 「私は在る」ナチュラル スピリット(株)発行 から出版されていますので、大分前になりますがその本を取り寄せ読んでみました。しかし読んではみたものの全ての対談が禅問答をしているようで、何を言いたいのかさっぱり理解できないまま積読になっていました。
ところが先週、本棚のその本が目に止まりもう一度ページを開いてみました。そうしたら、何とその言わんとしていることが「そういうことだったのか」と響いて来ました。
普通の人から見れば「私は在る」・・・それが何?と言うところでしょうが、その奥には深い真理が隠されています。「私は在る」と対峙して「マインド」という言葉が随所に出てきます。マインドは現れの二元性の世界で生まれ全てはマインドの中の概念にすぎない。たった一つの確かなことは「私は在る」が確固として残る。それは仏教で説かれている「空」であると直感しました。「私は在る」とは、想い(マインド)を「空」にした時に残る確固たるものだと言うことです。
実在は主観的でもなく客観的でもなく、マインドでもなく物質でもなく、時間でも空間でもない・・・充実と虚空で在り・・・私は存在する、それ故にすべては存在する・・・とさらに続きます。
すなわち「私は在る」それ以外は「一切皆空」と言わんとしているところです。皆さんは理解できますか?五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を説かれましたが、それはこの「私は在る」に至る現代流の最も簡単に行うことができる教えです。マインドはすべて「消えてゆく姿」なのです。ひたすら祈るとは全てのマインドを相手にせず、ただ本心のみを見つめることです。マインドにとらわれなくなると、そこに残るのは「私は在る」だけです。
私は在る・・・一切皆空・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・慈愛円光・・・世界人類が平和でありますように・神様ありがとうございます・・・と続くことになります。「私は在る」・「空」になることは簡単にはいきません。何事も無理をせず、ひたすら一歩一歩、千里の道も一歩からです。「世界平和の祈り」を祈る姿こそ、「私は在る」そこに実在が在るということでしょう!
世界人類が平和でありますように
今週は19日(月)から山のアトリエで過ごし昨日24日(土)に自宅に帰りました。
私としては木曜日に、以前お世話になった業者の方がお見えになり凍結防止ヒーターの使い方について教えていただいたつもりなのですが、その業者の方が「いつ帰るのですか?」とおっしゃるので、明後日の土曜日に帰りますと応えると「今日は金曜日で土曜日は明日ですよ!」とおっしゃるのです。え、そんなことはないとデジタル時計を見ると確かに今日は「23日(金)」となっているではないですか!狐に摘ままれたみたいでした。
山にいると時間の感覚がなくなり、ただ単に数え間違いだと思いますが、でも・・・もしかしたら異次元を彷徨ったのではないかという不思議な感覚もあります。時間とは絶対的なものではありませんのでありえることです。
作品をつくる時は異次元に入った感覚があります。業者の方がストーブの壁に驚いて「どうしてこんなものがつくれるのですか?」とお聞きになるので、「どうしてと言われても自然にできてしまうのです」としか応えようがありませんでした。・・・作品制作万般みなそうなのですが気がついたら1日が経っていたというのがザラです。ですから1日くらい時間のずれができてもおかしくありません。
何か・・・次元が上がっている感覚(物質感覚が薄くなっている)があるのですが、これは私一人でしょうか?
それは私が日々祈り、頭の中が空っぽになっていますので時間の感覚が薄れているためなのでしょうか?
世界人類が平和でありますように
私は何故、肉体界がつくられたのか?以前から理由がわかりませんでした。神の自由性を制限するような世界をあえてつくる必要があったのかということです。
五井先生はそのことについて、「肉体界はお釈迦様やイエス・キリストのような偉大な魂と平気で人を殺してしまうような極悪非道の魂が同じ世界に共存し、いろんな人が一緒に生きることで大きな学びを得る」とご法話でおっしゃっていた記憶があります。確かにおっしゃる通りなのですが、こんなに争いが絶えない地球とは一体何なのか?疑問は消えませんでした。
「宇宙全史1・地球全史篇」にはその経緯が詳しく書かれています。要は、五井先生のおっしゃった通りなのですが、地球という星は因果律と時間軸の中で「学びの星」として特別につくられたということです。他の星々で次元上昇に乗れなかった魂が地球に集められ一気に次元上昇に乗せたいという神の意図があるということです。神は地球人がもれなく次元上昇に乗れることを目指していらっしゃることは確かです。そのために五井先生がこの地球に出られ自らの体を通して波動調整され「世界平和の祈り」を残されたわけです。
人間は日々の生業(なりわい)だけで終わってしまうのではなく、何のためにこの地球に生まれてきたのか?!その本来の生きる目的を今一度思い出し魂の進化を図るべく精進すべきです。すべての地球人が目覚め、きたる次元上昇に乗れることを祈り続けます。
「世界平和の祈り」は、大いなる魂の進化を図り地球の次元上昇に乗る偉大なる祈りです。
世界人類が平和でありますように
デッキの流しにガラスタイルでモザイクを施しました。適当にタイルを割って色と形のバランスをとり接着剤で貼り、白い目どめ剤で隙間を埋めてでき上がりです。意図的に割ったタイルはほとんどなく偶然に割れたタイルが最終的にピッタリ合うのは魔法のようです。本当は偶然に割れたのではなく私の潜在意識がその仕上がりを予想して割ったと考えるべきです。
これは人生万般にも言えることで、すべての出来事は必然でできているということです。いつも不動の心で一歩一歩、ゆっくりと落ち着いて歩めばイイだけです。
そんなこんなで・・・これに味をしめ部屋の流しのシンク周りもチャレンジしてみます。今後は虹色をテーマにしてカラフルなデザインを考えています。どうなることやら本当に楽しみです。
おまけです・・・朝の散歩で採って来た10センチはあろう実が割れ、中から種がパラシュート部隊となって飛び散りました。なんとその大きさが半端ではなく直径が6・7センチはあります。たんぽぽの比ではありません。種(しゅ・DNA)を残すためとは言え、よく考えられています!!!
世界人類が平和でありますように
最近は「神」という言葉を使えなくなってきました。それは神という概念が曖昧であるからです。キリスト教では唯一絶対神を説き、神道では八百万の神を説きます。五井先生は法則の神と救済の神を分けられ、救済の神として守護霊・守護神を説かれました。
私達が一般的に神と呼んでいる存在は、守護霊・守護神を含め6次元の存在です。五井先生はその世界を仏教ではアラヤシキと呼ぶとおっしゃっていました。現れの世界ではここが最も高い次元と言えますが、厳密には更に高い次元が続いていると聞きます。この6次元に人間の本体(神)があり、人間が覚醒するとはこの6次元の本体と一つになることです。
神道で言われている八百万の神とはこの6次元で働かれている存在ですが、神と言えどいろいろな方向性をもっていらっしゃるので、老子は「神」という言葉は使わず道とか元とかを使い神の奥の存在を説かれています。ですから6次元を超えた奥の世界はどこまで続くのか肉体感覚では計り知れません。しかしいずれにしても奥の奥のその奥の一番大元がいらっしゃることは確かです。
五井先生は「天之御中主の神」についてはこの宇宙を主宰している大元の神であるとまではご法話などで述べていらっしゃいます。しかしその奥がまだあるわけで「それは我もわからい」とその「存在」について認めていらっしゃいますが具体的には説明されていません。ただし「宇宙子波動生命物理学」によって数式で示されるのではないかと期待はしていましたが、今は立ち切れになっています。
宇宙はその「存在」から生命をいただき自由な創造活動を行っている場であるわけです。私達人間はその「存在」から神を通して数限りない小魂(分霊)として別れ、その光の一筋としてお粗末ながこの人間界で働いているわけです。ですから厳密に言えば、人間はその「存在」の意識を表すことが生きる目的であると言えます。
五井先生は「まずは直霊(神)と一つになれればいいですよ」とご法話でおっしゃっていましたので、まずは「覚醒」をなすこと、そして神の世界のさらに奥にある存在と一体になる「完全覚醒」があることも心に留めておきたいものです。(形の世界にはいなくなる)
宇宙は高度に進化した高次元で働く宇宙人(神)が「実在」(その「存在」を指す)の命(意識)を受けこの宇宙森羅万象をつくっているわけですが、願わくば来る地球の次元上昇に乗り、さらにはそれ以上の高次元へ駆け昇りこの宇宙を自由に蹴巡りたいです。そして星々をデザインする宇宙の芸術家集団があると聞きますのでその一員として働きたい。(今の地球の常識では気狂い扱いされるでしょうが、ボケ老人の戯言(タワゴト)だと軽く聞き流してください)
「実在とは何か?」永遠の謎であるわけですが、今言えることは「実在はあると言えばある、ないと言えばない」しかしその響きは愛そのもの「慈悲」で満たされているのではないか?!それは「世界人類が平和でありますように」の響きそのものであるに違いない。これからも全てを消えてゆく姿と見切り実在のみ心である世界平和の祈りをひたすら祈り続けてゆきます。
世界人類が平和でありますように
何と焼物の試作品ができてしまいました。学生の頃、教職課程の授業でつくった素焼きの小さい器がありましたので、試しに青銅マットの釉薬をかけ七輪で焼いてみました。電気釜などでは少なくとも8時間は焼くのに時間がかかりますが、七輪に木炭を起こしドライヤーで風を送ると何と15分という速さで焼き上がってしまいました。もう、目から鱗です! !!感動の極みです。これを考えた人は凄いですね。
最初、釉薬を薄く塗り乾いたらもう一度濃いめのものを垂らしました。途中偶然にアルミ箔が付着しそれが釉薬と混ざりイイ風景をつくりました。なぜ茶色が出たのかはよく分かりません。そして、これまた偶然に炭の上に器をおいたところ、その部分が黒くなりました。何が起こるか予想もできません。一作目にして、こんな作品ができてしまい、ただただ自然の偉大さを讃えるだけです。
「花瓶」粘土・? 釉薬・青銅マット アルミ箔 七輪の炭
なお、今日は粘土でコーヒーカップとペンダントを作り乾かしています。どんな焼き上がりになるか楽しみです。
虫食いの跡が面白い木の皮を見つけ器にしました。
「器」木の皮 1 作品 2 元の皮(これからこれでもう1作作ります)
おまけです・・・以前、くるみとどんぐりのペンダントを紹介しましたが、今度はくるみは半分に切り水晶を埋め込みました。もう一つは小さなかりんの実を半分に切り完全に乾かせ種をとり天然石を埋め込みました。
「ペンダント」1 くるみ 水晶 2 かりんの実 天然石
世界人類が平和でありますように
「自分の悟りの深さを知る方法はありますか?」という質問に対して、五井先生は「悟りの深さは感謝の深さだ」と応えられています。世界平和の祈りは人間知では測りしれない「摩訶不思議な祈り」だと以前書きましたが、では感謝は「魔法の言葉」とでも言いたいところです。
山は周りのどこからでも登れるように、悟りは自らが神であることに気づくことですから100人100様です。「世界平和の祈り」は誰でもが簡単にできる方法ではありますが、あくまでも一つの方法であると考えるべきです。マザー・テレサは愛の実践から、植芝先生は武道を通して、またお百姓さんがお天とうさんはありがたいと太陽に合掌している姿は悟った姿だと五井先生はおしゃっていました。
愛とは宇宙との一体感であり、それは感謝の深さでもあるはずです。五井先生が「世界平和の祈り」を提唱される前は、神様への感謝行だけだったとご著書「神と人間」に書かれています。生命を授けていただきすべてを与えに与えられて生かされている神様へ感謝こそすべきです。
五井先生の教えの特徴は「すべては良くなるための消えてゆく姿」であるととらえることにあります。「病気になって、そのことがありがたい」のではなく、「病気になって、悪いものが消えてこれから良くなるのでありがたい」ととらえることです。痛いことは痛いし辛いことは辛い、けれどこれでカルマが消えて神様に一歩近づけたことがありがたいのです。この理屈が理解できれば自然とすべてのことに感謝できるようになります。
「神様ありがとうございます」と感謝することは、神と一つになり愛の光りが輝いています。
「世界人類が平和でありますように」と祈ることは、神のみ心を現している姿であり神への感謝とまったく同じです。
五井先生の「世界平和の祈り」は「守護霊様・守護神様・五井先生ありがとうございます」という神様への感謝と「世界人類が平和でありますように」という平和の祈りが対になった奇跡の祈りです。ぜひ迷うことなく世界平和の祈りを祈り続けてまいりましょう。
世界人類が平和でありますように
老子は、ああしよう・こうしようと小知才覚で動くのではなく、そのような肉体の想いを超えて自然法爾に無意にしてなせと説かれています。
「上善は水の如し」、自分を卑下する想いも善事を自慢する想いもすべては消えてゆく姿、小川のせせらぎのごとくサラサラと流れるごとくに善も悪にもとらわれないで生きよ!と五井先生のご著者「老子講義」で説明されています。
これは人間として最高レベルの生き方で、目先の損得・利害打算を超えて生きることはなかなかできるものではありません。しかし五井先生はその難しい生き方を、ひたすら祈るという方法でなし得ることができると教えていただきました。私はこの老子の言葉が大好きで、すべてが水の如きにサラサラと生きてゆけるように精進しています。
忙しい時、どうしようかと迷う時こそ腹を据え心して祈ることです。私が在職中、管理職として無理難題が山積し帰宅するのは夜の9時・10時はざらで土曜日もほとんど出勤していました。そんな八方塞がりの時でも祈りは天に通ずることを信じて祈り続けました。そうするとふとしたことから解決策が浮かんできました。もしその辛さに負けて祈っていなかったなら、その難局を超えられず倒れていたことでしょう。今元気でいられるのは祈りのおかげです。
祈りは天に通ずる光の道でありエネルギーそのものです。肉体の想いが滞れば、その分光が届かなくなります。どんな辛いことも必ず良くなることを信じ祈り続けることがすべてにおいて優先されることであり、それを乗り越えた時こそ運命が開かれる時です。
今、私がこのように山で芸術三昧の生活を送れるのは、その辛かった想いを祈りによって乗り越えた結果だと思っています。
世界人類が平和でありますように
ついにやってしまいました!
天空芸術は、あくまで自然が創り出した造形美を参考にして自らが新しい作品をつくることなのですが、そんなまどろっこしいことはぜず、ついにどんぐりとくるみをそのままコーティングしてしまいました。「芸術は何でもあり」ということでご理解ください。
「どんぐり ペンダント」着色剤(マホガニーブラウン)
「くるみ ペンダント」着色剤(マホガニーブラウン) バーナーで若干焼いて変化をつけました
なかなか気に入っています。くるみのペンダントはさりげなくつけてもおかしくないと思います。
先週、信州のたくさんの窯元を巡り焼物の奥深さに感動しました。しかし自分がイメージする作品には巡り会えませんでした。そこで、これから自分が使う器を自分でつくることに決めました。あくまで、これまでやってきた木から器をつくっている延長線上にあり木が粘土に変わっただけです。いろいろネットで調べた結果、高価な「電気窯」などなくても「七輪」でできることがわかりました。さてさてどんな器ができるか・・・?頑張ります!!!
やはり自分がやりたいことができるということは最高の喜びです。社会生活では生活を営むことにエネルギーを注ぎ、果たして私は何がやりたいのか?考える時間もないと思います。もちろん真剣に考え実行している方も少なくないと思いますがまだまだ少数派です。
そこで芸術家としての私の仕事を紹介することによって少しでも皆様の刺激になることを期待し、これからもお付き合いください。
世界人類が平和でありますように
私は前半は公立学校の美術教員、後半の7年間は管理職を経験し、一旦退職をして60才から6年間は再雇用と非常勤で美術を教えました。そして今年4月から学校の仕事はやめ、セルフビルドでログハウスを建て芸樹の道に専念しています。
前回「猿に学ぶ」で書いたのは、今生活することが精一杯な現代人や社会の見えないプレッシャーに身動きできなくなった多くの子どもたちを見るにつけ、人目を気にせずもっと自由にエネルギッシュに生きていけたらイイのにとの願望で書きました。ちょっと例えが悪かったかもしれません。また現実を逃避して夫婦別居して山に行きなさいと書いたのではありません。それは私自身の生命を生かす最良の道として家内の理解の上で行っていることで、それは人それぞれで皆さんに勧めているわけではありません。
社会は人と人の関係の中でいかに生きてゆくかを学ぶ場であり、相手の気持ちになってどこまで自らの行いができるかだと思います。40数年の教員生活は、まさにそのことを身をもって学びました。何をするにも自分ではなく相手の気持ちを優先することです。相手が生かされることによってそれが自分に返ってくるのです。
私は美術教員として、子供たちが楽しいと言ってくれる授業をつくるために子供たちの目線に立って授業を工夫しました。今年の3月教職生活を終えるとき、そっと私に手紙を渡してくれた生徒がいました。それは先生の授業は本当に楽しかったということを諄々と書かれてあり、子供たちのためにやったことは間違っていなかったと感激しました。それは子供たちの気持ちを思いやっての結果です。
そのことは日常生活にも生かされています。例えばコンビニで買い物をして、必ずバーコードの方を見せ、店を出る時には笑顔で「ありがとうございます」と挨拶します。それは「無味乾燥な仕事をご苦労さん」という私のささやかな気持から自然に出てきます。多分私以外でそこまで気を遣っている人を見たことはありません。
今置かれた環境は、すべてその人にとって学びの場であるわけで、辛いからと言ってそこから逃げてもその学びが終わるまで同じことが繰り返されます。私は芸術家ではなく、社会での学びが必要だったのだと思います。晴れて今年から、自分はこれから一体何がやりたいのかを見極めた結果が今の山の生活になりました。決して現実を逃避してではありませんので、くれぐれも誤解のないようにお願いします。
世界人類が平和でありますように
「摩訶不思議な祈り」と「祈って動く」に投稿がありました。同じようなことを感じていらっしゃる方が多いいかと思いここに応答します。
はじめまして。たまたま今夜、このブログに出逢いました。私はつい2年前から、細々と独りで世界平和の祈りを祈っております。私の場合は統一CD音声をかけて、1~2回(10分から20分)ほど統一をしていますが、他の人はどんな祈り方をして実際どんな体験をしているだろうかと、常日頃思っていました。なので、貴方のこの投稿を読んで嬉しく感じました。「世界人類が平和でありますように」を唱えていて、無の境地に入られたとのこと。大変素晴らしいことです。世界平和の祈りは、本当に人の意識を神界へと引き上げてくれるものなのだと信じて祈っていきたいです。
統一テープ、CDの効果について私も質問したいことがありますのでお尋ねします。現在も白光真宏会では、五井先生の統一音声を使って統一行をされています。五井先生在世時には、実際の道場で五井先生が「生で」口笛を吹き拍手を打って、そこから光の波動を放って人々の霊を清めていたわけですが、機械によって録音された音声でもお清めの力があるものなのでしょうか。あると考えてよろしいでしょうか。たしかに、モーツァルトやベートーベンの曲は、生演奏はもちろん、レコードCDで聞いても心が感動します。私も統一CD音声を使って統一行をしていると、すごく心地よくなる感じを体験しましたので、録音された口笛と拍手の音声からも、高い波動が放たれているのだろうなと考えていますが、天空さんのご見解は如何でありましょうか。
まず「統一」とは神(本体)と一つになることで、「祈り」とはその方法です。五井先生の教えの基本は「ながらの祈り」と言って、日常生活の中で「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を行じることです。もちろんこれだけでイイわけですが、この現実世界は波が荒くどうしてもその波に流されてしまいます。そこでその波に流されないように太い光の道をつける必要があります。ですから時間が取れる人は寝る前とか朝起きた時に座って「統一」を行うことをお勧めします。実際やってみると、眠りは深くなりますし明日起きるはずだった災もその統一した光で浄めていただいて大難が小難にしていただけます。そのことは五井先生がはっきりご法話でおっしゃっていますので間違いありません。
次に統一の方法ですが「統一テープ」を使うのがベストです。テープだから効果が薄いということはありません。五井先生の高弟で稀有な霊能者であられた村田正雄先生は、統一テープが流れている状態を霊的にみると、そのテープの微妙な波動に乗って五井先生が直接現れご指導されているとおっしゃっていました。ですから統一をせずただテープを流しているだけの状態は五井先生に対して失礼だとも付け加えられました。また統一は1回目、2回目、3回目と段々深まっていくともおっしゃっていました。私の経験からも個人差はありますが3回目くらいでかなり深い統一に入れます。
このことは私が若い頃、白光の錬成会で直接聞いた話ですから今でも忘れることはなく、これまで一貫して統一テープを使ってきました。ただし先日ブログで書いた通り最近になってテープがなくてもひたすら「世界人類が平和でありますように」と祈るだけで深い統一に入れるようになりましたのでテープは使っていません。ただし、その場合は邪な波に引っ張られるリスクがありますので、その守護とご指導を守護霊様・守護神様・五井先生にお願いしてから行います。ということで一般的には統一テープを使った方が良いと思います。
また統一は自分がしようと思ってもできるものではありません。一切を五井先生に全托する訓練です。おかげさまで最近は世界平和の祈りを繰り返し祈るだけで何もない世界にスーッと入れるようになり、座ってお祈りを始めると1時間半はあっという間に過ぎ、夜の統一が毎日の楽しみになっています。
ただ誤解があってはいけないので付け加えますと、統一中に雑念が出てきますが、それは消えてゆく姿であり統一の深さとは関係なく全く気にすることはありません。それはカスみたいなもので相手にせずただひたすら祈ることだけです。
以上になります
世界人類が平和でありますように
今日の朝散策中、猿軍団が物色した柿の木があり、その下には幾つもの柿が落とされていました。そのままにしておくのももったいないので、お猿さんのおこぼれを10個ばかりいただきました。これも干し柿にします。私の隣の家にも柿の木があり、やはり同じように猿が来て熟した甘いのだけを食べてゆきました。その時、近くで様子を見ていましたが食べ方のすざましいこと!人間に悪かろうなど微塵もなく自然の恵みを享受している姿に、人間もあのくらい自由にのびのびと生きれたらさぞ楽しいだろうなと思いました。
人間は生まれてこの方、ああしてはいけない、こうしてはいけない・・・こうしたら恥ずかしいなどと小さな枠の中で社会の通念で生きるように仕向けられてきました。まさに見えない鉄格子の中に閉じ込められているのですが鉄格子が透明で見えないのでわからないのです。
猿は自らがやりたいことをやっているだけです。人間は本当にやりたいことをやっているでしょうか?話は飛躍しますが、猿は体調を崩しても病院に行くことはありませんしワクチンを打つこともあり得ません。だけど皆元気に生きているではないですか!今人間は情報に翻弄され自らが狂っていることすら分からなくなっています。
五井先生は「非常識・常識・超常識」のご本を出されています。今こそ、人間は社会の常識(通念)を超えた超常識の生き方をする時です。あまり非常識すぎても難しいところはありますが、常識を超えてこそ新しい世界は開けるのだと思います。例えば常識では夫婦仲良くおしどり夫婦などと言いますが、最後は別離の時が来るわけで死ぬのは1人です。これは脅しではなく現実です。今私は家内とはほぼ別居生活ですが、お互いにやりたいことをやり自立した生き方ができており良かったと思います。
「そうは言ってもこの社会で生きているのだから仕方ない」・・・その気持ちはわかります。しかし、それを超えないと人類の未来はあり得ません。一歩でも二歩でも、とらわれの想いを消えてゆく姿にして祈りに祈り、情報に流されるのでなく自らが考え信念もち行動できる「超常識」の生き方を自分のものにしてゆきたいものです。
*「非常識・常識・超常識」について詳しいことは五井先生のご本をお読みください。
世界人類が平和でありますように
目的地のない放浪の旅4日目、上田から菅平高原、嬬恋村、草津温泉、軽井沢を経て一気に山梨に戻り、5日目はこの近辺の道の駅と窯元を巡りました。なんと20近くの道の駅や物産市場、窯元を回り車のナビには今後また行けるようにすべて場所を登録しました。その中でも安曇野スイス村の物産市場は地元の手工芸品などがたくさんあり雰囲気も良く、また機会があれば足を運んでみたいです。途中、菅平高原では3センチ積雪があり、あたり一面銀世界で童心に戻りワクワクしました。本当に実りの多い旅でした。
また夕飯は手間を省くため、途中の道の駅で買ったりんごと柿、キュウイなど果物中心でした。果物と生野菜の中にはエネルギーが満ち溢れており本当に美味しく感動の極みでした。これをきっかけに、こちらでも毎夕飯は季節の野菜と果物を大皿一杯に盛り付けて食べたいと思います。ありがたくも近くの道の駅で無農薬野菜や果物が本当に安く売っていることがわかりました。キャベツ、紫色した大根も1個100円、大きいカボチャがなんと200円でした。カボチャは煮て冷蔵庫で保管して食べたいと思います。大自然の中で育った果物や野菜はエネルギーに満ちこんなにも美味しいことを知ることができました。
途中、渋柿を安く売っていましたのでそれを買い今日皮を剥いで干し柿にしました。これが本当に美味で、この冬毎日1個ずつ食べるのが今から楽しみです。
何事も頭で考えるのだけではなく体で体験することがいかに大切であるかがわかりました。これからは1泊か2泊くらいで無理のないところで続けてゆきたいと思います。
おまけです・・・今日朝取ってきた葉っぱを玄関に飾りました。2つ目は取って1ヶ月くらい経ちイイ感じに形ができてきました。
取り急ぎ報告まで
世界人類が平和でありますように
「世界人類が平和でありますように」この祈り言葉は「夜明観音」から授った祈りであると五井先生はおっしゃっていました。この祈りを祈れば祈るほど、理屈を超えた秘められた摩訶不思議な力を感じます。
今までは統一テープを必ず流して統一していましたが、最近はテープなしでやっていることを先日お伝えしました。その理由をもう少し詳しく書きますと、その日は忙しくてテープをかけるのも時間がなくて、とにかく「世界人類が平和でありますように」だけを繰り返し祈ったのです。そうしたらスーッと何もない世界へ行ってしまい、気がついたら2時間が経っていました。寝ていたわけではないので摩訶不思議な出来事でした。
そして昨日夜、暗くなって車の中でやることもないので8時と言う早い時間に横になりました。私の睡眠時間は4・5時間と極めて短いので、こんな早い時間に寝れないだろと半分諦めの境地で統一の要領でひたすら「世界人類が平和でありますように」を祈っていたらスーッと寝てしまいました。それも深い睡眠だったようで朝目覚めて頭がスッキリしていました。そこに世界平和の祈りの秘められた何かを感じた次第です。
「世界人類が平和でありますように」この15文字に秘められた力は私たちの想像をはるかに超えたものがあります。ヨガで難しい呼吸法や瞑想をしてクンダリーニを上昇させチャクラを開くことはしなくてイイです。力のある人にイニシエーションを受けてチャクラを開くこともいらないのです。以前にも書きましたが、もし時期が来ていないのにチャクラが開かれると、そのエネルギーをコントロールすることができないで気狂いになってしまうと聞いています。
世界平和の祈りを祈っていれば自然にチャクラは開かれます。それは五井先生がどこかのご法話でおっしゃていた記憶があります。五井先生はその人の心境をあちらでご覧になられ時期が来ればチャクラを開かれるのです。五井先生を信じ「世界平和の祈り」を祈り続けてゆくことが一番無理のない安全な方法なのです。
「世界人類が平和でありますように」 この摩訶不思議な祈りの力を信じてひたすら祈り続けてゆきましょう!!!
世界人類が平和でありますように
3日目 志賀高原を経て上田より 天空
「放浪の旅」1日目、白樺湖、ビーナスラインを通り長野の諏訪湖畔にて車中泊。道の駅で民芸品の犬をあしらった小銭入があまりに可愛く即購入。霧ヶ峰高原では私の大好きなブルーベリーが入ったソフトクリームがありこれまた思わずいただきました。また高山植物をあしらった刺繍のしおりが気に入りこれまた2つ購入!これは新たな発想の絵になりそうです。もうその絵の構想ができています。写真も何枚かとり収穫が多い1日でした。
さて2日目は信州に入り、安曇野の静かな佇まい、紅葉する山々や千曲川の流れに感動したくさん写真を撮りました。この日は信州の窯元を回り気に入った器を4つ購入しました。これからは各地の窯元巡りの旅になりそうです。道の駅では一袋いっぱい入った甘柿がなんと100円で売っていました。これは買うしかないということで先ほど食べたところです。お昼はご当地手作りのおやきなどを食べお腹がパンパンになり、夜はりんごと柿を食べるのが精一杯でした。
そんなこんなこんなで、無事に元気でやっています。日本に住んでいながら日本をまったく知らなかったことを実感しています。明日は小布施の民芸品を見たいなと思っています。とりあえずご報告まで・・・
日々悔いを残さず精一杯生きてゆきます
世界人類が平和でありますように
4月から始めたセルフビルドによるアトリエづくりは、一旦は完成したと書きましたが、デッキがあまりにも寒く、この冬を越えるのは難しいとの判断で、壁や窓をつくったり透明ポリカを二重にしたりして改善に改善を重ね本日ほぼ完了しました。これでどうにか冬を越えられそうです。
ここで一区切りつきましたので、以前書きました「全国秘境の旅」に出ます。以前は秘境と呼ばれるところを回るつもりでしたが、毎朝の散策をから、どんなところにも美は潜んでいることを実感しましたので、そうではなく「放浪の旅」に変更し明日出発する予定です。まずは一週間を目処に高速道路は使わずに目的地を待たずひたすら景色を眺めながら一般道を進みたいと思います。もし気に入ったところがあれば長期滞在も視野に入れ、また登りたい山があればば登ってみたいです。
食事は夜一食に体が慣れていますので、私が理想としていた「果物と生野菜」を夜の主食にし昼は以前紹介しました「仙人食」(ナッツや干し葡萄など)をいただくことにします。りんご一個とコンビニの千切り野菜を食べるつもりです。
PCと携帯は一週間程度なら400whの小型のリチュウムイオンバッテーリで十分対応できると踏んでいます。ブログの更新は携帯からデザリングできまますし全国のコンビニのwifiから繋がることを確認しています。
夜は「道の駅」を探し車で寝袋で寝ます。体を伸ばしてゆったりと寝れるように板を敷きフルフラットにして準備万端整っています。
私は2棟のログハウスを自らの力でつくることにより様々なことを学びました。どんな困難な状況が出てもきても必ず道は開けること、これは失敗だと思ったことが後で生かされることなど、私の潜在意識には深く刻まれ、これから何が起ころうと心を動かさず前に進めば良いのだということを心の底から理解しました。人間は体験を通して学び進化するのであって、何もせず観念で「自分はできる」と思ってもそれは空回りするだけです。
そんなことで旅の途中に感動するようなことがあればこのブログを更新するかもしれませんが、基本旅を楽しみたいと思います。
おまけです。以前紹介した牧場のサイロの壁です。今このシミからイメージして新たな絵の制作に入っています。このある場所に小さな滝を入れるつもりです。
これは木の木目からイメージしたものです。
「秘境の滝」 キャンバス裏布地 アクリル絵の具 縦43㎝
グッド・ラック
世界人類が平和でありますように
このブログを見られている人は、どこの団体にも属さずフリーでお祈りをされている方が多いと思いますが、白光の会員さんもいらっしゃると思います。ですから先日「私の立ち位置」という文章を書きました。五井先生の教えは素晴らしいが「宇宙全史」はちょっと・・・いう方もいらっしゃると思います。
本心を言うと、理想は五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけを書いてゆくことなのですが、せっぱ詰まった地球の現状を考えると「宇宙全史」から学んだ地球の現状を皆さんにお伝えした方が良いという判断です。
例えが悪いかも知れませんが、癌にかかり「告知されない」のと「余命1年」と言われるのとどちらがイイか似ています。私の兄は昨年がんで亡くなりましたが「癌で厳しい状況である」ことを告知していただきました。それにより自暴自棄になる人もいるかも知れませんが、一年しかないのなら精一杯生きようとする人が大半だと思います。私の兄は告知された時、平然としていました。そして余命を完うしました。
地球は次元が上昇することは確かで、わけのわからないままそれを迎えるのではなく、状況をしっかり把握し心の準備をしっかりすることが大切です。ただ一般に公にすれば、それを伝えた私自身への不信や、このブログの信ぴょう性すらなくなってしまうこともあり得ます。しかしそのリスクを考えた上でのことです。「癌の告知」と同じように現実を知っていただき、一歩でも前向きに一日一日を歩んで行っていただきたいとの願いです。
世界人類が平和でありますように
山はゆく秋を惜しむかのように美を共演しています。今日の朝持ち帰った色づいた葉っぱです。
道端に転がっていました。腐らしてももったいないので、いただいてきました。カリンは硬くて生では食べられないので、よく煮込みジャムにしました。これが本当に美味で、その風味にハマってしまいました。そんなことで即ネットでカリンの苗を注文しました。早くここで大きな実をつけて欲しいです。
「カリン」黄色が美しいです。
先日の夜、風が強いことがあり、これまた柿が一杯落ちていました。渋柿でしたので皮を剥いで干し柿にします。最初は吊るしていたのですが面倒になりとりあえず棚において乾かすことにしました。
とにかく自然のものは最高に美味しいです。山ではいろんな実がなっていますので、なんでも口に入れて味を確かめています。大半は苦いですが中には面白いものもあります。自然のめぐみに感謝していただきます。
世界人類が平和でありますように
まんだらけ社長、古川益三氏は、漫画本によりこの宇宙の最新情報をおろすことが許され、まんだらけ出版より「御祭舟」がこの10月に出版されました。文章では許されなかった情報が漫画なら緩衝され良いという上の方の判断であったようです。
私はWEB上でその漫画のプロローグを読み、おどろおどろした絵に良い印象を受けず予約は入れませんでしたが、先日、まんだらけ株主優待券があることを思い出し中野本店に行き「特装版」を購入しました。
今、読み終えて、正直予想以上の内容で、漫画だから内容が浅くなるのではないかという危惧は払拭され、逆に視覚的な表現が文章よりも理解を深めることがあると実感しました。制作時間に制約がある中、どこまで出版できるのか?またこれからどのような展開になるのか楽しみな気持ちに変わりました。まさに「リアルタイム異世界緊急通信」です。
これまで、上の方は、現在の微妙な情勢により新しい地球にかかわる具体的な情報は一切ノーコメントでした。ところが今回出された漫画「御祭舟」において、以下の内容が明らかにされましたので、ここに公開しうると判断したものをお伝えします。
① 2014年に「20年後・・・」の本が出てから20年後、それはこれから12年後であり、その新しい地球の名称が正式に決まった。
②その名称は「菩経彌あ」(ボヘミア)です。
*「あ」の漢字は難しくパソコンの変換では出ません、悪しからず。
③新しい地球名称が決まったということは、これからの世界構造が決まったということ。
④ハルマゲドンによる核戦争はない。地球を壊すことはせず、それに代わって新しい地球に住む人間を残してゆく。それはこれから一気に加速する。例えば今回の「新型コロナ」の感染拡大もその流れにある。
⑤「20年後・・・」の本にあるインフラが停まる状態になることはあり得る。一週間はしのげるように準備は怠らず。
⑥「災害は忘れた頃にやって来る」のではなく「忘れた頃に降ろされる」
新しい地球への移行は、これまでは人類の心境をおもんばかり、変更に次ぐ変更で先延ばしになってきたと聞いていますが、ここで新しい地球の名称が決まったということは、どうも上の方も本氣ではないかという感触です。移行期は天と地がシャッフルするわけで、これは脅しではなく混乱は避けられないと思います。それには何よりも祈りを最優先にして何が起こっても動じない「不動心」を養ってゆくこです。
蛇足になりますが、ちなみに私は一週間インフラがストップした時のことをシュミレーションしています。電気は太陽光、火はカセットボンベ、食事は不食の体をつくってきたことが生かされると思います。今のところおやつに仙人食(コーヒー・アーモンド・干しぶどう・フルーツフレーク・ブルーベリー野菜ジュース)と夕飯に蕎麦(こうや豆腐・切り干し大根・とろろ昆布を入れる)があればO Kです。これは今実際やっています。
以上でした
世界人類が平和でありますように
それは10年以上前くらいになると思います。詳しくは覚えていませんが、私の親友で懇意にしていた白光(五井先生が主催された宗教団体)の会員の方が世界平和の祈りを推奨し五井先生のことが書かれてあるこんな本があるよ、と見せてもらったのが「宇宙全史」(まんだらけ出版、虚空蔵55・みわ 共著)です。その当時は、本の内容が難解でこんな本を書く人もいるんだくらいでした。
五井先生がご神帰されて、養女の昌美先生が2代目会長として就任し「五井平和団体」を設立され、また様々な新しい行法を提唱されました。しかし、その会長のやり方に違和感を感じて退会される方が増えたのも事実で、私の法友で今でも会員の方はいますが退会した人も少なくありません。
そんな中、インターネットの検索で「世界平和の祈り」を祈る団体が白光以外にいくつもあることを知り衝撃を受けました。今私が知るかぎり世界平和の祈りを祈る団体等は白光以外に4つあります。その中で、私は五井先生が提唱された「世界平和の祈り」だけを行う団体に共感し長い間お世話になった白光を退会しました。そして「世界平和の祈り」だけを祈ることを決意しました。
そしてその後、2つの団体に入会しましたが、世界平和の祈りはもちろん祈るのですが五井先生が行っていらしたやり方とは若干異なり、その主催者の「色」がつき違和感を拭えませんでした。そこで私は一切の団体に所属せず自分一人で「世界平和の祈り」を祈っていくことを一大決心した次第です。
「宇宙全史」のワークは、団体ではなくインターネット上のやり取りがすべてで宇宙の探究が主目的ですが、その内容はあまり過激で普通の人には受け入れ難いものでしょう。しかし私は、この広大無辺の宇宙の神秘を少しでも解明したい気持ちが強くあり、その一旦でも理解できれば最高の喜びです。その意味において「宇宙全史」のワークへのかかわりはこれからも続けてゆくつもりです。
多分このブログは様々な方がご覧になっていらっしゃると思いますので、今回はあえて私の「立ち位置」を明確にしました。
世界人類が平和でありますように
人間は死んでしまえばお終いなら、いくら一生懸命頑張ってもその努力は何の意味もなくなってしまいます。それなら善悪関係なく好き放題やって楽しく生きていく方がマシです。人間は死ぬと霊界に移行し、時期が来ると肉体界で積んだカルマの解消と自らに課せられたテーマを果たすために再度地上に下生し輪廻転生を繰り返すと一般的には考えられています。
しかしこれは嘘ではないのですが方便で、真実は非常に複雑なシステムが存在していると言います。ここではそのカラクリには触れませんが、結論だけ言うと、五井先生がご法話で「永遠の生命」を得れば人間は個性をもったまま永遠に生き続けるとおっしゃっています。これは方便ではなく真実であると信じます。「永遠の生命を得る」とは「覚醒する」ということでしょう。
そのためには「カルマの解消」をするしかありません。カルマには2つあり、それは今生でつくってしまったカルマと過去世から持ち越したカルマです。これまでつくってしまったカルマは仕方ないので、まずは今生でカルマを新たにつくらないことです。カルマとは一般に言われているような善いことをしたら善業で悪いことをしたら悪業であるという単純なものではないということです。それは善悪の絶対的な価値基準がないので当然と言えば当然でしょう。
・・・「カルマというのは私たちの内部にある葛藤が記憶に残り、その葛藤を解消しようとして顕現する現象です。そしてこの葛藤は「感情」・「理性」・「情動」・「肉体の記憶」等の体にまつわる記憶が「やり残している」という印象を解消するために「機」を得て発動するものです。ここで問題なのが「やり残している」という印象を持たないということです。「常にその場その場で自分の印象を納得させていく」ということができれば、カルマは発生しませんし、もちろんたまってくることもありません。・・・「宇宙全史1巻第7章 魂・まんだらけ出版」
要する、カルマをつくるのは善悪ではなく、「ああしとけばこうしとけばよかった・何故あんなことをしたんだ・・・」等々、悔いを残すことだったのです。よく五井先生がサバサバと楽天的に生きなさいとおっしゃっていましたがそのことです。いくら善人と呼ばれる人でもグチグチして想いを残していればカルマをつくっていることになります。
一番イイのは「人生のテーマ」生きがいを見つけて「自分のやりたいことをやる」ことです。好きなことをやっているときは「愚痴」は出ませんし自分が生き生きとして自分の感情を解放することができます。しかし現実は自分が本当にやりたいことをやっている人はどれだけいるでしょう?
そこで五井先生は、自分のやりがいを見つけることができなくても「ああでもない、こうでもない」と、とらわれる想いを消えてゆく姿にして「祈り」に替えることを説かれました。これが誰でもできる「カルマをつくらない最上のやり方」であるに違いありません。
そして、これまで積み上げられて来たカルマをどう対処すればイイかということがあります。これは「腹を据えて」何が出てきても「不動の心」で受けるしかありません。そうは言っても、普通の人間がすぐにできることではありませんので、やはりどんな辛い思いも「消えてゆく姿」にして祈りに替えてゆく方法がベストです。
すべての「カルマを解消」すれば「永遠の生命を得る」ことを信じて、新しいカルマをつくらず、出てきたカルマはすべて消えてゆく姿にして祈りに徹し「不動の心」を養ってゆきましょう。
これなら凡夫の私でもできるような気になります
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
これは世界平和の祈り全文です。皆さんはこの5行の祈り言葉のどれが大切だと思われますか?
それは “世界人類が平和でありますように” に決まっているだろう」と大半の方は思われるでしょうが、私は自らが祈り続けて来た経験から、大切なのはこの5行の「祈り言葉」ではなく、祈りへ向かう心であるとわかりました。
例えば、気狂いを除けば誰でも「世界が平和になれば良い」と願っているでしょう。でもそれは願いであり祈りではないのです。いくら肉体の想いで世界平和を願っても想わないよりはイイぐらいで、世界を変えるだけの力にはなりません。五井先生の「世界平和の祈り」は「祈り」であって願望ではないのです。願望と祈りの違いをはっきり区別し祈りとは何かを深く理解する必要があります。
祈りとは自らの本体である神と一つになる方法で、世界平和の祈りは世界を平和にしようと働かれている救世の大光明霊団の中心の神である五井先生につながる祈りです。その力をいただき神様にこの世界を平和にしていただくのです。五井先生につながることがこの祈りの目的であるのです。
ですから五井先生、在世中は・・・
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
ではなく・・・
守護霊様・守護神様・五井先生ありがとうございます
と祈っていたはずです。私は最近になって、この感謝の祈りこそ、祈りの奥義であると深く思えるようになりました。守護霊様・守護神様は6次元の存在で我々の本体です。普通は守護の神霊と一体になれば覚ったと言いますが、あくまでもそれは現れの世界でこの宇宙の2元性を超えていません。その奥にある「実在」と呼ばれる存在と一つにならないと「永遠の生命を得た」とは言えません。五井先生は2元性を超えられた存在ですから、五井先生に感謝することが最も重要なポイントなのです。
すなわち6次元の本体(守護霊様・守護神様)から実在へつながるためには2元性をこえられた五井先生への感謝の祈りが欠かせないのです。
守護霊様・守護神様・五井先生ありがとうございます
と祈ればスムーズに「実在」へつながるということです。
ですから極論を言えば、祈り言葉はなんでもイイので、世界の「せ」でも平和の「へ」でも五井先生の「ご」でもイイのです。もちろん祈らなくても「五井先生を思う」だけでもイイのです!結局五井先生への「真」(信じる力)が深ければ深いほどその光明力は大きく、五井先生への「真」がなければ、いくら世界平和を祈っても効果は薄いものになります。
これは私が覚り得た「祈りの奥義」であり独断ではありません。もちろん、五井先生の存在の深さを信じられない人はそれでイイと思います。日々の祈りを通してその真を深めることです・・・ただし、五井先生につながらない平和への祈り(願望)と区別することは必要です。
世界人類が平和でありますように
こちらでは3日前、八ヶ岳・甲斐駒ヶ岳など山々は初冠雪・初霜で冬の到来を告げています。朝はめっきり寒くなりました。それでも毎朝の山の散策は続けています。
皆さんは、「むかご」を知っていますか?今まで見過ごしていましたが、よく見ると日当たりの良いところに一杯実をつけています。これは山芋の実で食べることができます。最近はむかごを探すのが楽しみで採って生で食べています。生だと少し生臭さがありますので茹でると最高に美味しいです。もちろん根には芋をつけていますので今日はそれを掘ってきました。夕食は「とろろ蕎麦」にするつもりです。
今日の朝採ってきた山芋とむかご、紅葉した葉っぱです
紅葉した葉っぱがあまりにも美しいので、枯山水にしてみました
おまけ・・・栗の葉っぱが黄色に色づくところです
世界人類が平和でありますように
私は60才の後半に入り、自らの人生を振り返ると・・・
いろんな失敗を繰り返しながらも、何事も一生懸命、やるべきことはやってきた。
五井先生を信じ「世界平和の祈り」をひたすら祈り続けた善果(徳)は今生においても実りつつある。
後は最後の総仕上げ!
すべてを神(本心)に委ね、一切の願望を消えてゆく姿にし想いを空っぽにして「自然法爾」に生きてゆくだけ。
自然に感謝し、自然に感動し、自然から学び、自然と共に生きてゆく。
人と自然との調和を追求し、新しいものを創造し、その楽しさを満喫する。
そして、美しき動植物が生きる多様な惑星、この愛べき地球の平和を祈る。
生きとし生けるものすべてが幸せでありますように
世界人類が平和でありますように
昨日、川崎の方が長野の出張に合わせて、山梨の山のアトリエに足を運んでいただきました。
この何年か世界平和の祈りを祈りながらも迷うことがあり、私のブログを読み会ってみたくなったそうです。
いろんなお話をした中で、五井先生の教えの素晴らしさを確認し、これからも世界平和の祈りを祈り続けることを確認し合いました。これで迷いが吹っ切れスッキリし、今度はお友達を連れて遊びに来たいともおっしゃっていただきました。
何事も一人で悩まないことです。「求めよ、さらば与えられん」で、どんな困難なことも真剣に神に祈れば「必ず神はそれに応えます」これは私の体験からも間違いないことです。
道は必ず開かれることを信じ、最後まで諦めないで祈りを通して守護霊様と一つになり天命を完うしてゆきましょう。
世界人類が平和でありますように
昨日散策中に凄いものを見てしました。牧場の餌を入れる4つのサイロの内側の壁が、まるで一幅の名画を見ているようでした。何十年風雨さらされてできたシミは深い山並を連想させ、横に伸びる線が実に美しい!これまでも言ってきましたが、私の絵はこの自然がつくる壁のシミの景色を再現しているだけです。
私は五井先生がよく使われた「自然法爾」という言葉が大好きです。大自然が「ひとりでに」つくられるように、壁のシミも「ひとりでに」深い景色をつくります。これは神秘です。意図しなくても自然は美をつくるようになっています。
絵もいい絵を描こうなどと力む必要はありません。壁のシミのように絵の具を自由自在に垂らすだけでひとりでにできます。今回は秋をテーマにしてみました。
「秋の深まり」 F6 アクリル絵の具 キャンバス裏布地
人間もああしようこうしようといちいち考えなくても自然に活動できるようになっているとは五井先生が繰り返しおっしゃったことです。私の愛読書に五井先生のご著書「自然法爾」があります。その一文をご紹介します。
「考えることはいらないんだ、そういうものは消えてゆく姿なんだから、すべてを守護霊守護神さんに任せてしておいて、内催し、中から催してくる想い通りに動きなさい」・・・本当に徹しますと、中から自然に浮かんでくる。中から自然に動かされる動きで動いてゆくのが一番いいんです。
絵も考えているとダメなんですね!スースーと絵筆が流れるように自然に動くのです。そんなことで、守護霊様(本心)にすべてお任せして、ごちゃごちゃ考えないでみな消えてゆく姿にして、祈り一念で生きてゆきましょう。
世界人類が平和でありますように
今週と来週水曜日まで山にいます。
毎朝散策に出かけ、毎日違う山の表情を楽しんでいます。風景は一日・一瞬とて同じものはなく瞬々刻々移り変わっています。それは見事で、同じ散策コースを歩いても飽きることはありません。いつも何かを発見し気に入った花や枝や葉っぱを持ち帰り作品にしています。アトリエにはそれが溢れ大変なことになっています。
「芸術は何でもあり」ということを自然から学びました。ですから最近は自信を持って好きなことに挑戦しています。これは食事をするダイニングテーブルの上につけるライトです。はだか電球のコードに、つるをイメージして麻紐を絡ませ大きな葉っぱと花の実をあしらいました。「芸術は何でもあり」ということでご理解ください。私はとても気に入っています!
これは確か「まむし草」とかテレビでやっていました。その姿はまさに毒蛇に値するグロテスクさがあります。
そんなこんなで山での生活を楽しんでいます。18日(火)、このブログがご縁でメールのやり取りを始めた川崎の方が長野の出張の時にこのアトリエに立ち寄ることになりました。アトリエ訪問第一号です・・・本当に楽しみです!このアトリエは異次元の世界ですから、心して来ていただければと思います。
皆さんの中でも、都合が許せば是非遊びに来てください。老若男女問いません。お待ちしています!!!
世界人類が平和でありますように
この世の中の出来事は、善きも悪しきも偶然というものはなくすべて意味があるととらえるべきです。守護霊様は鈍感な肉体人間を導くために、あらゆる手段を講じて働きかておられます。それは偶然のタイミングでつけたテレビであったり、友達との会話であったり・・・様々です。ですから私は日々の出来事から守護霊様のメッセージを感じるように努めています。
この3年間、取りつかれたように絵画制作を行い、多数美術展に出品し国内外評論家の方からは高い評価をいただくことができ、これからプロの画家の道を歩む気持ちも出てきたことはお伝えしました。ところが、昨日、フランスの美術団体ル・サロンに出品した作品が「選外」の通知が届きました。自分としては入選し金賞をいただくつもりでいましたので予想外でした。その時、ピンときたことは、作品は私が自信をもって出品したもので入選も選外も紙一重であったと思います。もし私がこれから画家の道を歩む天命があるのなら入選はしたはずです。これは守護霊様からのメッセージであると腹が決まりました。
現代の美術画壇は自己主張が強い作品が高く評価され、一見自己主張がないような私の作品を評価する人は少数派になります。世の中も変わり、もうそろそろ私のような作品が表舞台に出る時期になったかなと思っていましたが現実はまだ厳しいと判断しました。
以後、絵は楽しく描いてゆき、作品発表は個展中心に行い特別なことがない限り美術展に出品することはやめます。それより大切なことは更にさらに自然を愛し自然から学び自然と共に生きてゆくことです。美術作品に限ることなく、陶芸、盆栽、染色、金工、木工・・・あらゆることに挑戦してみる気持ちになりました。
まずは手始めに、100坪の土地をキャンバスに見立て自然と調和した庭を造り、日当たりの良い東側は葡萄や桃など育ててみるつもりです。
世界人類が平和でありますように
五井先生は無理をしてはいけないとご法話でよくおっしゃってました。それは無理をすると必ずそのしっぺ返しがくるからです。
私の学生時代の友人は、社会生活をせず1日中本部道場に通い祈りばかりやっていました。果たして彼はそのお祈りで悟ることとができたのか?定かではありませんが、長い目で見た時にその反動は必ずくると思います。
五井先生の教えは、普通に社会生活を送りながら祈りを深めることが大切で、これは方便ではなく五井先生の本心です。
祈りがいいのだから、働くこともせず祈りだけやればいいというのは五井先生のみ心ではありません。社会生活を送ることが大変な修業なわけで、その中で祈ることに意味があります。生命を生かすことが祈りであるわけですから何事も一生懸命やり、その中でとらわれる想いが出たら消えてゆく姿にして、どんなことが起ころうとも心が動かないように精進することです。日常生活の中で祈りを深めることが五井先生の教えの基本です。
ただ、どうしてもこの社会は業生の波が強く、それに流されてしまいますので、その業生の波を跳ね返せる力を蓄える必要があります。それが座ってお祈りをする「統一」です。
五井先生がご帰神されて、統一を直接ご指導していただくことはできませんが、一番簡単な方法は「統一テープ」を聞き、全ての想いを委ねる練習をすることです。私はできるだけ毎晩座って祈ってきました。これが日常生活に生かされています。無理は言えませんので、できる人は是非続けてみてください。
「統一」は、これまでどんな時も五井先生がご指導された柏手や霊笛を録音した「統一テープ」を流してお祈りしてきましたが、先週、忙しくてテープをかけずに心の中でお祈りをしたところ、非常に深い統一感を得ました。何と夜の8時にお祈りを始めて、統一から覚めたのが10時でした。その間、全く何もない世界に入り一瞬でした。それ以来、統一テープは使わなくなりました。最初に守護霊様・守護神様・五井先生に統一のご加護を願い、世界平和の祈り全文を3回祈り、後は心の中でお祈りを続けるだけです。今は深い統一に入るには30分はかかりますが、その後はいつの間にか祈り言葉も消え空なる世界へ入ります。
これは私自身が手探りでやっていることで、邪な波がかかってくる危険が伴いますので、一般的には勧められません。まずは統一テープを流しながらお祈りする方法が五井先生ご在世中にやってらしたことで一番安全です。統一に慣れてくるとテープを聞かないほうがスーッと早く統一状態に入れるようになり、これは修練だと思います。
五井先生の教えは、社会生活を送りながら無理なく大悟徹底できる方法です。それは「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を日々日常生活で実行することだけですが、無理のない人は座って祈る統一を併せて行えば鬼に金棒です。
世界人類が平和でありますように
デッキを部屋にする作業をしながらの作品づくりでしたので、この作品は描き始めてからここまでくるのに時間がかかりました。毎日見ている南アルプス「甲斐駒ヶ岳」をイメージしていますが、いっさいスケッチはしておらず山の形も違います。ましてや滝などありません。すべて私の理想の山を追求した結果です。
これまでは自由な比率で描き、後で画布を切って板に貼っていましたが、その作業は手間がかかり市販の額縁に入れられないデメリットがありました。そこで、前回の「白い花」から定型の大きさで描きオリジナルの額縁から簡単に取り外せるようにもしました。
「連山」アクリル絵の具 キャンバス裏布地 F6号(縦約40センチ) かなり細かい1ミリのシミにこだわり山の奥深さを追求しました
世界人類が平和でありますように
今日の朝、「あけび」を見つけました。私が小学生の頃、稲刈りが始まるとちょうどその時期、あけびが実をつけます。毎年山へ行ってあけびを採って食べ、種ばかりですがその甘さがたまりませんでした。そんなことがあり、あけびを見つけ懐かしくて小躍りしてしまいました。もったいないので眺めるだけでまだ食べていません。形も面白いのですが深い絶妙な紫色が本当に美しいです。
「あけび」
今日は紫の実のものばかり採ってきました。写真ではわかりづらいのですがいい色をしています。柿は地面に落ちていたものを頂いてきました。渋柿ですが時間が経てば甘くなります。
「紫の実」
以前お話しましたが、車をとめるところの真上に杉の枝があり葉や油らしきものが落ちてくるので、テントを張る要領でカーポートをつくりました。
おまけです・・・何と8畳ほどのデッキが床に杉板を張り窓をつけ部屋になってしまいました。向かって左側が平面、右側が立体制作に使います。雑然としていますが、工具などは所定の位置を決め効率よく仕事ができるようにしてあります。流しや机は全部自分で作りました。左端には洗濯機があり普段は板で隠しています。
世界人類が平和でありますように
今日は散策中、枝振りのいい1.5mくらいの松と私の背丈くらいある実をつけた栗の木を山の道路脇で見つけました。これは国の物かもしれませんが、ほっといてもただ伸びるだけで益はないのでいただき庭に移植しました。松は手入れをして形をつくってゆき、栗は実がなるのを楽しみにします。ついでに近くの盆栽屋さんから形ができている1mくらいの黒松と500円玉くらいの大粒の実がなるブルーベリーも買いました。これで、無花果、柿、小さい実がなる林檎、木の苺、大きい実のなるブルーベリー、そして今日植えた栗が庭にあることになります。これから小さいながらも自然と一体になった庭をつくってゆきます。
昨日の朝に採ってきたもので面白く見ているだけで飽きません。
「枯花」紅い実 名前はわかりません
「枯花」紅い実 さんしょう
世界人類が平和でありますように
先週自宅に帰ってたまたまテレビをつけたら、テレビ東京で、外国人が「合気道」を体験するために日本に招待した番組をやっていました。その中で現在、合気道160万人の頂点の立つ道主、植芝守央先生(開祖・植芝盛平先生のお孫さん)が出演されていました。守央先生は、お若い頃、市川の五井先生がいらっしゃた本部道場までわざわざ足を運んでいただき、五井先生の会の青年達に稽古をつけていただきました。私はその時にお会いした記憶が残っています。テレビの守央先生は若い時とまったく変わりなく、背筋がピンと立ちかくしゃくとして凛々しい姿で神々しさを感じました。思わず見入ってしまい、お元気そうで本当に嬉しくなりました。
「合気」は「愛気」であり、「愛気」は「和気」でもあり「平和の気」です。合気道も世界平和の祈りも出所は同じです。それは合気道開祖、植芝盛平先生と五井先生は肝胆相照らす間柄であったことからもうかがえます。
以前にも書きましたが、最初お二人がお逢いになられた時の挨拶がご両人とも「私は宇宙です」だったということはよく聞く話です。植芝先生は五井先生のことを「祈りの御本尊」であるとおっしゃっていましたし、五井先生は植芝先生のことを「天之御中主神」即ち宇宙神の現れであるとおっしゃっていました。
「空気投げ」と言う技があります。相手がかかってくると相手に触れずに相手が吹っ飛んでしまうというものです。これは植芝盛平先生のように「空」になられた人だけができる技であろうかと推察します。投げようと想った相手の想いは、空なる植芝先生を通過し、想いを発した人に返り、その力で吹っ飛んでしまうと五井先生は説明されていました。空なる者を傷つけることはできないということでしょう。
武道も芸術も宗教も、究極は「空」になることです。空になることによって、小さな肉体の力ではなく人間の本体である神の力を発揮することができるのです。最近は「空」のことばかり書いていますが、これしかないと言うのが結論です。
そのためはひたすら祈ることだけです
世界人類が平和でありますように
今日の朝の散策はピンクのコスモスに感動しました。同じピンクでも濃いのと薄いのと花びらの周りに濃い線が入ったのと様々で、是非その色の違いを味わってください。
「コスモス」生花 道端に咲いていたコスモスを、ただとってきて花瓶にさしただけですので形にはなっていません、悪しからず。
「あの人は今」というテレビ番組がありますが、「あの生花は今」と言うことで前回生けた草花は、このように「枯山水」になりました。芸術はなんでもありの世界ですから皆さんも固定概念を外して楽しんでください。
「枯山水1」枯れてきたので葉っぱを落とし形を整理して見ました
「枯山水2」萩の花は枯れましたのでその枝と葉っぱを鉛筆立てに添えて見ました
「枯山水3」葉っぱはなくなり実だけ残りました。黒い実がとてもきれいです。
「枯山水4」栗の葉っぱはまだ落ちません。とても頑張っています。イガイガは硬くて刺さると跳び上がるほど痛いです。
世界人類が平和でありますように
今までは朝の散策で、栗やくるみが路上に落ちていても出来るだけ気にしないようにしてきましたが、今日はあまりにもたくさんあるので拾ってきました。栗は柴栗と言って小さいサイズで、さすがに栗は通りすがりの人が拾っていきますが、くるみは落ちたものは誰も拾う人はいません。栗は塩を少々入れ湯がくだけですし、くるみは金槌で割るだけですから、食べることにめんどくさがり屋の私でも手間要らずです。
栗は茹でて、おやつで少し食べた後で実際はこの倍くらいあったかもしれません。くるみも試食の後ですがいっぱいありました。どちらも美味で無花果は自分が植えたもので今年は枝いっぱいに実をつけており食べるのが追いつきません。前にも書きましたが皮が柔らかいので皮ごと食べることができます。
結論から言うと最高でした!自然のものはやはり味わい深いです。これからは朝の里山散策は入れ物を用意して行くつもりです。
世界人類が平和でありますように
人間がやるべきことは、自我を虚しゅうして肉体の想いを空っぽにすることです。前回のブログにはそのことを書きましたが、ではどうやったら空になれるかということです。
禅僧が一生座禅をしても悟れる人は少ないと五井先生はご本でおっしゃっていました。ましてや社会生活を送っている人がその真似事をやっても悟れるはずはありません。
すべてを「空」と闊歩できる人はいないのですから、いっぺんに空の境地になろうとせず一生かけて、今日よりも明日、明日より明後日・・・と迷える想いを少しでも無くしてゆくことです。その方法が「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の教えです。
不安や恐怖、迷いの想いが出た時に、自分で消そうと思ってもできるものではありません。一番いい方法が「祈り」を通して「感の転換」を行うことです。ダメな自分が出たらその想いをもったまま「神様」とすり替え、何があっても「世界人類が平和でありますように」と神のみ心である「世界平和の祈り」を祈り続ければいいわけです。これを続けていると、空になろうと思わなくてもいつの間にか、とらわれのない空の心境に近づいてゆきます。
大切なことは日々の想いをどこに置くかだと五井先生はおっしゃっていました。ああでもないこうでもない・・・と迷えるままに生きてゆくより、想いを超えて日々青空の心境で生きてゆきたいものです。
世界人類が平和でありますように
五井先生の教えは「消えてゆく姿で世界平和の祈り」に尽きるわけですが、これをさらに短くすると「空」の教えということになります。
私は若い頃、この世の中は「想い通りになる世界」だから想いを無くして何ができるのか?理解できず、願望成就のために「念力を強める」ことをやっていました。五井先生の教えを知ってからも祈りながら念力を併せてやっていました。念力をすべて捨て去り祈り一本になったのはかなり後になってからです。スピリチュアルの世界では「引き寄せの法則」が主流ですから真に「祈り」の意味を理解できている人は少ないと推察します。
私が愛読している五井先生の「空即是色」のご本には、空・空・空・・・・・と空一色で空になることだけを繰り返し述べられています。まだの方は是非このご本を読まれることをお勧めします。
祈りとは自らの本体である直霊(神)と一つになる方法で、祈りを通して神と一つになれば念力で物事を成就するとは比較にならない力を発揮します。それは自らが体験を通して真を深めてゆくことしかなく信仰とはその真を深める行為といえます。
五井先生が「空即是色」のご本P130 )で「心臓が自然に動いているよいうに、肺臓が・・・胃腸が自然に動いているように、自然に動いているのです・・・だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんですよ」とおっしゃっています。人間はガチャガチャ想わなくても、必要な時にその活動をすればいいだけなのです。
私はさすがに四十数年世界平和の祈りを祈り続けてきましたので、想いと行動に時差がなくなり迷うことなく体がスースーと動くようになってきました。朝目覚めると今日やることがイメージとして湧いてきたり信じられないアイデアが出てきたりして、後は体が自然法爾に動くままに動いてゆきます。
老子の言葉に「無意にしてなせ」ということがあります。無意ということは、ああしようこうしようと肉体の想いで動くのではなく自然法爾になせということです。今の私の作品は絵を描くことを諦めて山で暮らすようになてから自然に生まれたものです。そこにはいい絵を描きたいなどという想いはありません。ただ自然に湧いてくるのです。ですからわずか2年足らずで400点を越える作品が出来てしまいました。まさに「出来てしまった」としか言いようがありません。
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」とは、まさに「空」になる一番簡単な方法です。自らの体験を通して間違いありません。
世界人類が平和でありますように
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